昭和四十六年二月二十六日
御理解第四十一節
「信心は話を聞くだけが能ではない。吾が心からも練り出すがよい。」
遠賀郡の日吉つる先生、一日がかりで遠賀郡から小倉教会まで歩いてお参りになる。尤まだ汽車のなかった時代の事です。
そう裕福な暮しではなかったらしい。だから自分が減食された。一日二合頂くところは一合にする。その一合を毎日貯めて行かれた。十日経つと一升になる。それを持ってお参りをされるのが楽しい。そういう楽しい心、生き生きとして楽しむと云う心。
成程日吉つるは真の信心になったと仰せられ、話が分かる気が致します。しかも千人の神に取り立ててやろうと云う神様の喜びそのままそこに、神様が日吉つるという先生に約束して御座る。
神様は約束通りに日吉先生の教会で人がどんどん助かりになったとこういう訳である。
吾が心からも練り出すがよい。先ずそんなら、時間を練出する。時間を練り出す。自分共おかげを頂かん筈じゃん。大体もう練り出し方が出来とらんもの。と云う風に気付かにゃいかん。
話はこれだけ頂いとるのだから、そこから本当に日吉つると云う先生にこれだけは土壇場と、これだけは人が真似の出来んと云ったものを練り出させて貰う。その第一に時間を練り出せ、御初穂を練り出せと、これは私が頂いたものです。
昨日は婦人部会に引き続いて幹部研修会がありました。私も研修会に出させて貰った。そして皆さんから大変良い話を聞かせて頂いた。その中にですね、或方の発言が、本当に練り出さなければならんなあ、信心とはと思わせる程しの質問をなさった。
伊万里の中村さんです。昨日の話の中に、昨日の御理解の中にもありました様に、おかげは和賀心にありと。おかげは和賀心にあるんだぞと、おかげは吾が心から練るんだぞと。それなのにおかげは一生懸命働くところから頂けるんだと云った様な実際はそういう事ではなかろうか。
商売繁盛でもやり方の良いところから商売繁盛するのだ。
神様今日はどうぞ、商売繁盛致します様にとお願いしながら自分が力んで居る。だから神様はそれに一寸だけ手を掛けて下さる様なもんだと云う様な意味の御理解頂きましたですね。
昨日、おかげはもうどこまでも吾が心なのだ。その和賀心が商売なら商売に熱心にしなければおられないものを作り出して行く。
吾が心が、只和賀心か棚からぼた餅が落ちて來ると言う意味じゃあない。その吾が心そのものが一生懸命仕事に精を出させる原動力を作るのだ。おかげは貴方の心から出されるんだぞと云うことの話でした。やはり、そこんところを二代金光様四神様はおかげは神から出ると思うな。氏子の心から出るのものじゃと教えておられますね。氏子おかげは神から出ると思うな。氏子の心から出るのだぞと云う訳なんです。私はそういう話を昨日させて頂いた。そしたら中村さんが言われるのに、私はその事が一つも分からないと、おかげは矢張り神様から出るでしょうもんと云われる。
成程、神様から出るけど、その神様から引き出す為には矢張り自分の心の状態と云うものが、それを受け止めれる心と言うものがね、そういうものが出来なければならないと、云った様な事をお話ししている内にあたしはこんな風に申しました。
御理解に願う氏子におかげを授けと仰る。何にも分からない。判らぬけれども、神様お願いしますと参って來る。
そういう時には確かに自分の願いの「 」何も判らずに願いに来とるのですから。
吾が心から頂く何物も用意が出来とる筈がないから、神様がおかげを下さるのは神様の権威にかけてでも奇跡的なおかげを見せて下さる。成程、おかげは神様から出るんだ。けれども、次にはどういう風に教えておられるかと言うと、願う氏子におかげを授け、理解申し聞かせたら、そこが御理解を承らせて貰うと、吾が心になれ、和賀心になれ、今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にありと教えられる。
和らぎ賀ぶ心になれよと、その心におかげがあると云うことに成って來る。だから、どちらも本当なんだ。だから神様の方からばかりおかげが來るものではなくて、やはり和賀心からおかげが出るんだと。ところが、昨日はそれから先の事であった。信心も段々分かり神様のおかげも分からせて貰うて、成程神様有難うございますと神様のおかげを分からせて貰う。本当に神様から頂いて居ると言う実感である。そこからおかげを頂くだけではない、信心を頂くことになってくる。そこに信心が出来て來る。その信心におかげが頂けて來る。
そこにはおかげは和賀心から頂けて來る訳になる。
私がああなったからおかげを頂けたのである。私が磨いたから頂いたんだ。私が一生懸命修行し、一生懸命お参りしたからおかげを頂いたんだと云うことになる。そこから形の違ったいけないものが生まれて來る傾向がある。慢心が生まれて來る。ああもう一生懸命お参りしたから一生懸命修行したから、その辺から信心がね、純粋の信心の有難さでなくて、慢心が吾が心の中にはびこって來る。そしてお気付きでも頂くところから、ああおかげは、これは我が心からと思いよったところがそうではない、やはり神様から頂くんだと云うことが分かるんだ。
どれだけ修行させて頂いても、どれだけ改まらせて頂いても自分の修行の状態を見てみたい。どんなに改まったと云うたところで自分が分かって來れば來る程、自分の様な浅ましい汚いものはないことが分かって來る。それでも、おかげを下さるところを見ると、やはりおかげは神様から出るんだと分かって來る。
貴方が質問されることは何時も哲学的だと昨日話したことでした。そういう結論に達した。
練り出す。練ると言うことは本当に尊いことだと思うのです。そこで練り出させて頂く焦点の最も素晴らしいところは教祖様がどう教えておられるかと云うとね、わが子の可愛さを知りて神が氏子を守り下さる事を悟れよと云う御神訓があります。
子供が可愛い。いや子供が可愛くない筈がない。そこで分からせて頂くことは、分からせて貰うより悟らせて貰う。私はここで練り出すと言うことは悟のだ。悟と云うことだと思う。だからおかげにつながるのだ。ああそうじゃったと分かる。
天地の親神様が私共のことをです、それこそ親が子を思う心、どうぞこの子供が立派に成長して世間様の御迷惑になる様な事がない、おかげが頂きたい。どうぞ信心を頂いて呉れてよいおかげを受けて呉れよと親が願わん筈はない。子供の可愛さを知りて神の氏子をお守り下さることを悟れよと、親が子のことを切に思う。そのことを親が子を思う切なる心の何十倍何百倍とも分からぬ思いで天地の親神様が氏子一人一人の上の事を思うて下さるんだと分かる。
そこから金光様の御信心は本格的になって來る。私の様な者の上にでも天地の親神様がこの様に心を掛けて下さる事が分かる。それは親が子を思う、その思い、まあ同質のものと申しましょうか。そういう思いで神様が私共の事を思い、又は守り又守り続けて御座ることが分かる時に、その神様の願いに応えさせて貰わなければおられないと云うところに、そういうものが生まれて來る。そこから初めてお道の信心の有難いことが分かって來る。その神様の親神様の思いが分かる時、その神様の切なる思いに奉ろうとする姿勢、そういう信心を私はお道の信心。
親の事は子が願い、子の事は親が願う、あいよかけよでと言う道が開けて來る。私は吾が心から練り出すと云うことでも様々に練り出して貰うけども、練り出させて貰う、分かるだけなら分かるけれおも本当にそうだと実感させて貰う。それが悟りなんだ。
天地の親神様が私共一人一人の上にそういう願いを掛けてござる、思いをかけてござる。そこが分かったときにそれこそ、翻然として悟らなければならん。そこから本気で神様に向かわせて貰う心が湧いて來る。もう理屈ではない。親が子を思うのが理屈でない様に子が親を思うのも理屈ではない。
これだけ親に孝行すれば親が財産をくれるじゃろうと云う様な了見はさらさらない。親が子を思う思い、同じ理屈である。これ程に自分が年を取った時に見て貰わんならんから子供を育てとくと云う親はない。当然の事として親は子を育てるのですから、子供も又当然の事として親の喜ぶ生き方をさせて貰う。いわゆる親孝行の信心と云うことになる。そこからその親孝行の心と云うのは、もう止むに止まれないものなのだ。おかげを受けるから、受けないから信心するとかせんとか云ったことじゃないのだ。
そういう信心が私は練り出されなければならない。話を聞けばそれだけだけど、翻然としてそうだと神様に向かえれるそういう心がです、そういう心になれる為に本気で修行してみるが良いと云うことになるのです。
昨日日田の綾部さんが最後に発表しとられましたが、今度一週間だったけど、断食の真似事をさせて頂きましたが、あのお許しを頂いた朝の御理解頂いて神様の心の深さ広さ又その御愛情に触れたときに思わず私は泣き伏して仕舞ったと云うておられます。一週間の断食でそういう事が分かった。そしてもう、泣き伏しざるを居られない程しの感動を受けた感じだと云うのである。
吾が心から練り出すがよい。様々ありますけれども、その一番大事な事は吾が子の可愛さを知りて神の氏子を御守り下さることを悟れと仰る。そういう悟りをね、練りだしてお互いのお話も頂かなければならない。修行もさせて頂かなければいけないと思うのでございます。 どうぞ。